はのはのブログ 懐かしき日々

Yahoo!ブログでの2006年6月から2019年6月までの記憶

三島由紀夫の「金閣寺」を読み終えました。

 
まず読み終わって直後の感想としては・・・「やっと燃やしたか!」という感じ。
 
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そんなこと言っちゃいけないのでしょうけど。
だんだんイライラしちゃってました(~_~;)
 
この話しは難しかった~。
美しく繊細な語句やいいまわしが、古いうえに仏教用語もでてくる。
表現されている美しさを追いつつもどんどん主人公の屈折した性格や境遇からの行動を理解しようとして逆にもうちょっとシンプルな表現のほうが読めるかも・・・という感じでした。
なんて未熟なわたしでしょう(-_-;)
これを高校生とかで読むなんて、凄いわ。
 
 
全く実物をみたこともない幼いうちに「とてつもなく美しいもの」として育つことで、自分にとっての「美」の最上級となってしまった「金閣」。
吃音の影響もあり強いコンプレックスをもつ、感受性の強い主人公。
 
心惹かれる女性に罵倒され蔑まされても相手はどうせ「金閣」よりは劣るものだということで屈辱を感じながらも耐えていられたのか。
貧乏な母の清貧とかけ離れた女としての弱さもけがらわしく許せない。
自分からしたら何の苦労もない明るい人生を過ごしてきた友人は、自分の悩みなど「たいしたことない」とも
いうように接してきた。そのとき、自分にとってのそれと他人にとってはそんなに重要ではないとわかってきていたはずなのに。
その友人鶴川とのその時間は今までにはない落ち着いた時間であり、なおそれさえ自分には「ふさわしくない」ともおもいつつも楽しい時間だったとおもう。
自分と同等のコンプレックスのかたまりの友柏木に対しては、それを逆手に世の中を小気味よく渡ってきていたなんてそれはいやしく感じながらも羨ましいことだったろう。
じぶんは女性に過剰な存在価値をもとめなくなってもなお「金閣」という存在が自分にのしかかり うまく関係をもてない。
 
尊敬すべき老師の俗な部分を垣間見たことにより、みな何のかんのと美しく正しいようにふるまいながらも
汚れているのではないか!とそれをみとめさせて 自分のように卑下するかのようなもっと遠慮がちに生きるべきではないか・・・とおもったんじゃないかな。
せめて老師が自分の弱さをみとめ、けれどもそれをどう克服して体をなしているのか・・・
あるいは 主人公のそのひねくれたような性格を圧倒的な正しい教えで叱責し道をしるしてくれたなら・・・
本当はそれを求めていたとおもうけれど、ついぞ彼のまわりには温かい人間的な教えはなかったから。
 
自分だけが「金閣」という純粋で完全とした美しさを理解しているとおもい、
彼自信の潔癖さゆえにそれに押しつぶされそうだったのだろう。
だから「金閣」に火をつけ燃やすことで自分の行動で不動の美を壊し、
そのことによる人々への影響があたかも今まで見いだせなかった(自ら消していた)自分の存在価値を
大きなものとして知らしめたかったのだ。
 
最初から金閣寺に火をつけると知っていたからかもしれないけれど、
この主人公はどこでそれを思い立つのだろうかと読んでいた。
読めば夢中になりながらも苦しくて、中断するとなかなか本に戻れないような 主人公や友人の屈折した
考えや行動が重かった。
いまの時代ならこの主人公って自殺するんじゃないだろうか?
わたしなら この話しの途中で何度もそうなっていたと思う。
それでも色んなことを考え、ある意味認識をかえないことでまわりに距離を置いて生き続け
最終的に、自分を苦しめているものを克服するということを美への潔癖な対抗手段として「金閣に火をつけて燃やす」と決めるのだけど・・・
それからが、ぐずぐず長いとおもった。
ああ何だか煮え切らない!彼が惹かれつつも蔑んだ美しい女性達のほうが、美しいが故に不幸な人生となった女性たちのほうが 潔いのではないか。
 
その結局が、火のついた金閣から逃げ出して タバコ吸ってるんだから・・・
彼は自分の潔癖さに火をつけて燃やしたのだ。
これからは、汚れた気分でみなと同じになった気分で生きていこうとおもったのだろうか。
 
 
金閣」は彼を最後まであこがれの金色の小部屋に迎えいれなかった。
それは彼に生きるように仕向けたのではなく、拒否したのだとおもった。
 
 
一度読んだぐらいで理解はできていないだろうけれど、
それにしても あ~大変だったぁ!(笑)