はのはのブログ 懐かしき日々

Yahoo!ブログでの2006年6月から2019年6月までの記憶

日帰り壱岐ツアー♪②

一支国博物館です☆
イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3
誰の建築だとおもいますか?
イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6
黒川紀章さんの 国内最後の遺作だそうです。
こんなところに~、素敵な建築物ぅ♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イメージ 7
中国の歴史書魏志倭人伝』に「一支国(いきこく)」と記された壱岐
古代日本を物語る貴重な資料が島内から多数出土しているが、これらを一堂に展示しているのが一支国博物館。
.世界的建築家、故黒川紀章氏がデザインを手掛けており、周囲の山並みに沿って曲線を描く天然芝の屋根が印象的。
国指定特別史跡原の辻遺跡」を望む丘の上に建ち、常設展示室では東アジア(中国・朝鮮半島)と日本の歴史を比較することで、グローバルな視点から壱岐の通史を紹介している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ガイドさんの案内で魏志倭人伝の一節を読んで 対馬壱岐島が歴史上の重要な拠点だったと感じました。
もっともっとゆっくりじっくり 見て回れたらよかったのだけど。
展示室の薄暗さに資料がしっかり読めなくて メガネを持ってこなかったことを後悔したし。

以下はWikipediaより。ガイドさんも 展示された魏志倭人伝の文章を読みながら
同じような説明をしてくれました。

魏志倭人伝において邪馬壹國(邪馬臺國)が支配下に置いていたとされる「一大國」という名の島国である。対海國(対馬国)から南に一千里(当時の度量衡で400Km)の所、ということになるが、仮に対海國を現在の対馬とすれば、これは鹿児島県の南方海上になるため、実際にどこであるかには論争がある。
※当時の中国では「一=400〜500m」という「長里」が使われて来た。 また。『三国史』の魏(・西晋)朝では、「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されている。なお日本の近代では一里=4Kmであり、中国の距離とは異なる。

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

この時代の集落での生活やひとの様子のジオラマも興味深かったです。
海辺での仕事をしているひとはこんな入れ墨がありました・・・とか、ほぉ~時代だねと(笑)
沢山の出土品もありました。
糸島にも伊都国があったので遺跡が沢山あってみたことはあったのですが
やっぱり九州は大陸に近いという実感がわきました。

さて次は 壱岐の自然を♪
つづく